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 マッチ製造の黎明期

1827年に英国のウオーカーが、軸木の先に黄燐をつけたいわゆる黄燐マッチを発明した。工業的には1831年にフランスのサウリヤにより製造され、1844年に後世世界を制したスウェーデンのヨンコピングマッチ工場が設立された。なお、小箱の側薬に赤燐を使用した安全マッチは、1855年スウェーデンで発明された。

わが国では、1839年(天保10年)に四国高松藩藩士の久米通賢が、ライコウ〔雷酸第2水銀Hg(ONC)2〕を使用したライコウマッチの試作に成功していることが、同氏の手記「生歴木諸品之扣」に出ている。このマッチは現在のマッチとは随分違ったもののようである。

1847年(弘化4年)に兵庫県加古郡横谷村出身の蘭学者川本幸民が、燐を用いてマッチを作ったという記事が、同氏著の「裕軒随筆」に記載されているが、詳細は不明である。

また、1870年(明治3年)横浜在住の外人フラオンがマッチ製造をしたといわれるが、果たして工場を設立したのか、企画に終わったのか不明である。

金沢藩士清水誠が、明治3年欧州に留学し、当時外遊中の宮内次官吉井友実に勧められて、マッチの製造法を研究し、帰朝後1875年(明治8年)に東京市三田四国町の吉井氏別邸に仮工場を作り、マッチの製造を始めた。翌年東京市本所柳原に「新燧社」を設立、本格的にマッチの製造を始めた。彼がマッチの製法を広く公開したこと、及び当時の失業士族救済のための授産産業として奨励され、各地にマッチ工場が設立された。


 マッチ産業の成長期

1878年(明治11年)に始めてマッチが輸出された。それ以後マッチの輸出が次第に増加し、重要輸出製品の一つとなった。

明治8年にマッチの生産が開始されてから順調に生産量を増やし、一方清水誠は輸入マッチの販売店(洋品業者)に呼びかけて「開興商社」なる組合を作り、国産マッチの普及に努め、遂に13年夏にはマッチの輸入が皆無となった。

一方マッチの輸出も次第に増加したが、明治16・17年には粗製濫造して粗悪品を輸出するものがでて、日本品の名声を落とし、輸出量が極端に減り閉鎖するマッチ工場が続出した。 この幣を除くため、明治20年(1887年)兵庫県燐寸製造組合が設立された。



 第一次世界大戦後の不況時代

大正9年、世界大戦の終了にともない、欧州のマッチ工場が生産を開始して輸出を増やしたので、わが国の輸出量は対前年比が42%減を示すに至った。殊に黄燐マッチの需要減は著しかった。なお、わが国では黄燐マッチは大正11年製造禁止となり、12年には輸出禁止となった。

大正8年秋に、日米マッチの合同案が米国ダイヤモンドマッチから提案されたが、当時米国への輸出見通しが有望であったにもかかわらず、日本製品の高騰のため輸出が減少し、交渉は自然解消の形になった。しかし、10年には再燃してダイヤモンド社と日本の東洋・帝国・中央の3社との合同経営の新会社設立の話も出たが、この計画も頓挫した。

大正10年には、不況のため休業や閉鎖する工場が続出し、また賃金引き下げに抵抗してストライキが頻発した。 大正13年には輸出量が最盛期の3分の1の約36,400マッチトンに落ち込み、11月には米価騰貴を理由に「日本燐寸」の4工場の女工2,000名が賃上げ要求のストライキに入り、不況は深刻となった。


 スウェーデン燐寸の進出

大正13年、スウェーデン系の国際マッチが、当時の有力なマッチ会社「日本燐寸株式会社」の株の過半数を取得し、同社を支配下に置いた。一方、日本燐寸同業組合聯合会の瀧川会長を通じて、日本の各燐寸工場の合同を促し、スウェーデン燐寸との合弁の話を持ち込んできた。この交渉が不成立となるや、日本の業者個々と交渉し、14年には小林燐寸、公益社、益進社等との合同に成功した。

昭和2年には、日本最大の燐寸会社である東洋燐寸(瀧川儀一社長)との合弁が進み、スウェーデン燐寸、東洋燐寸、日本燐寸、公益社が合同して、「大同燐寸株式会社」が設立された。新会社の規模は資本金600万円、工場数15工場、印刷工場数2、製軸工場数3、職工数約7千名、月産約3万マッチトン ・約100万円であった。同年、スウェーデン燐寸は蒲田・諫山両燐寸会社と談合し、「朝日燐寸株式会社」を設立した。

昭和4年には、大同燐寸はスウェーデンの自動燐寸製造機を神戸市入江工場に導入し、量産を始めるとともに安売りを実施して販売拡張を図った。国内生産量の7〜8割を支配した大同燐寸・朝日燐寸と非スウェーデン系の中小業者との競争は一層激しくなった。

世界支配を目指したスウェーデン燐寸は世界的不況と強引な商策が祟り、金融の方策がつき果て、昭和7年スウェーデン燐寸の総帥のクルーガーがパリーでピストル自殺を遂げた。

大同燐寸はスウェーデンからの金融支援が絶たれて、資金繰りがむずかしくなり、臨時休業を実施する状況となった。その後久原財閥の鮎川義介に資本の譲渡が行われスウェーデン燐寸は日本から手を引くこととなった。大同燐寸はその後変遷を経て、現在の兼松日産農林株式会社となる。


 生産統制時代

大正14年に重要輸出工業組合法が公布され、マッチは同法の指定業種となった。15年には同法に基づき、日本燐寸同業組合聯合会が「日本燐寸工業組合」に改組した。当時、業界の不況は覆いがたく、工場を閉鎖するもの増加、操短4割という惨状であった。また、昭和6年頃には不況のため賃金引下げが行われ、労働争議も頻発している。

昭和7年には、日本燐寸工業組合による生産統制のため、同組合の定款変更と統制規則が制定され、8年には工業組合法第8条による命令が発せられ、本格的な生産の統制が実施された。11年には日本燐寸共販株式会社が設立されて販売上の統制を実施するに至った。

昭和12年には日華事変が勃発し、戦時色を強め、13年にはマッチに物品税が課税されるとともに、公定価格が実施された。15年には商工省令で「マッチ配給統制規則」が公布され、切符制度が実施され、マッチは配給品となった。

昭和16年第2次世界大戦に突入し、経済界は戦時統制の時代となった。17年には日本燐寸共販株式会社、日本燐寸工業組合、東及び西日本燐寸軸木工業組合及びその聯合会を統合して日本燐寸統制株式会社が設立され、マッチ産業の一元的綜合統制機関となった。18年「統制会社令」の制定により、日本燐寸統制株式会社は同令による会社となり、統制を強化した。戦況の推移にともない、原木、紙、膠、塩素酸カリ等の原材料の不足が目立ち、また、「企業整備令」による吸収合併、廃業などが進み、その上空襲等による工場焼失もあって生産力は著しく減少して、20年の終戦を迎えた。

昭和21年「統制会社令」は廃止となり、日本燐寸統制株式会社は日本燐寸産業株式会社に改組し、引続きマッチの一手買取販売を実施した。この間マッチの生産は増加の一途をたどり、23年には月産2万マッチトン台に達した。同年9月には統制撤廃となり、昭和8年以来の統制に終止符が打たれた。

この年、大和産業株式会社は法人として新しい一歩を踏み出したのである。




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